昭和54年01月26日 朝の御理解
御理解 第51節
「天地の間に住む人間は神の氏子。身の上に痛み病気あっては、家業できがたし。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛馬にいたるまで、氏子身の上のこと何なりとも、実意をもって願え。」
こういう御教えが、ま、金光教は庶民宗教だというふうに言われた事でしょうけれども、私は、こういう御教えが事実、そのまま私共の上に、いわゆる身の上何なりとも、しかも、牛馬に至る迄願えておかげが頂けれるという事が、いうならば私が言う万民宗教だと思うのです。例えば、高度な事を言うておっても、これが真実だ、これが真だ。と言うておっても、それにおかげだ、真だと言うておっても、真のおかげが伴なわなかったら、も、そりゃ宗教としての、それは値打ちがないんだ。と。
宗教は人が助かるという事を以て、生命とするというふうに私は思うんですよね。ですから、も、金光教の、いうならば独自性と言うてもいいでしょうね。牛馬のことに至るまで、実意を以て願えとおっしゃるのですから。昨日も岡山の方から団体参拝がございました中に、乳癌でお願いしてあったのが、もうそれこそ、奇跡というより他にない程しのおかげを頂いて、昨日お礼参拝して来てありました。
もう昨日、私はの方、婦人会があっておりましたから、こちらに出ておられませんでしたから、私がここに出て来た時には、もう皆帰りがけ。帰ろうとして、ここに集まっておる時でした。そして、その方が出て来て、もうそれこそ涙ながらに、お礼のお届けを聞かして頂いたんですけれども、その身の上に病気があったり、痛い痒いがあっては家業が出来難いんだとね。その家業が出来ることのために願え、実意をもって願え。というふうに言うておられます。
私はそういう意味で昨日の御理解の、いわゆる真の信心ということをですね、そういうおかげを頂いて、神様のあらたかさが分って、そして真の信心に、いわゆる真の信心がわかる。例えば福山の方達なんかは、ある意味でお教会で教えが頂けない。合楽の教えに、ま、いうならば魅せられて、毎月、月参りをしてまいります。それが、昨日が月参りの日でしたが、いわゆる教えを頂くことの楽しみで、ま参ってくるわけです。
そしてなら、教えを頂く事が楽しみで参ってきて、願う事は願い、頼む事は頼み、そしてそれが一つ一つ、おかげが成就していくという事。ね。いうならおやつを頂きながら本当な信心へ進んで行く。これは私はどうでもね。人間にはやっぱ、おやつがいるんですね。もうあんたはお兄ちゃんだから、おやつはいらんでしょうという。やっぱお兄ちゃんでも、やっぱおやつがほしいんです。ね。まそれは言うだけあって実際は、なら私共でもそうです。おやつがなからなきゃ、とてもここに座っちゃおられん。
そりゃ神様の眼から御覧になれば、それこそ小さい赤ん坊にも等しい私共でございましょうからね。そこはいうならば、おやつ抜きにして、さあ勉強勉強と言うただけでは、本当な事になってこないだろうと。私は昨日、一寸七時前に神様から、ここに出る事を頂いてから、ここへ出てまいりました。そしたらその頃は、大体はいつも御用はないのですけども、次から次とやっぱ私がここに座っとかなければならない方達が、お参りをしてまいりまして、おかげを頂いたんですけれども。
丁度九時の御祈念が終わるまで二時間。二時間の間にここで頂きます事が、まいろいろと。おそらくは、今日がここの教師会があるんです。筑後地区の。二十名余りの各教会の先生方が集まって、今日ここで新年宴会みたいなのがあるんだそうです。丁度ここが当番教会になっておりますから、午前中は、まいろいろな協議がございますでしょう。中でもしんなら、もし私が何か合楽先生一言。とこう言われてもし私が直言を、もし許されるとするならばね。
昨日私は、ここで頂いた事を言おうと、こう思ったんです。と言うのはね、今の教団はね、教団のあり方というものが、例えば今日の御理解から言うと、こういう御理解が非常に、いうならば、おかげを頂くという事は、おかげ話しなんかという事は、もうあんまりしてはならないように言うんですね。特にあなたなら病気です、痛いです痒いです。牛馬のことまでお願いしました。お願いしましたら、こういう奇跡的なおかげを頂きました。という答えが出て来なければ、私は金光教じゃないと思うんですね。
そういうことだろうと、こう思ったんですけども『水が酒になり酒が酢になる』と頂きました。ですからね、愛の心をもって人に伝えて行くと、こう言うてもです。ね、飲んでみたところが酢いかったから、だあれん飲みゃしませんよ。ね。飲むほどに、酔うほどに、それこそ金光様の信心は何とも言えない。いうならば、酔い心地とでも申しましょうか、有り難い心の状態になって行けれるから有り難い。ね。
金光教百年経ちましたら、水が酒になり酒が酢になりかけておると、ま酢になると神様はおっしゃるけれども、酢になりかけておる。だから好きなものは本当に好き者は、ま呑んでほろっとするかも知れませんかれども、口にはやっぱり酢っぱい。酢ぱい酒では売れませんし。またすすめられません。それを進めておるのですから、繁昌するはずがない。私は改めて思わせて頂いた事なんですけれども、御取次成就信心生活新発足という、ま長たらしい名前の運動が今、教団で中心になっておりますけれども。
この長ったらしい、この御教えが新発足というところは、どういうと言うと、御取次成就信心生活運動。これが金光教の信心です。ね。それの新発足という事はね、も金光教を始めからやり直さなきゃならんということです。新発足ですから。ね。いうなら金光教のやり直しなんです。元の水に変わって、そして酒を作っていかなければならない。呑むほどに酔うほどに。それこそ金光教の信心がです、牛馬の事にまでね。人間の身の上の事、何なりとも願える。
人間の持っておる悩み、難儀というものが、お取次ぎを頂いて、それが解決の道を与えられるおかげを頂いていけれる。という信心にならなければだめです。そして今の教団はそういうように、例えば、呑めと言うてもなかなか、一杯ならチョイと呑んでも酢いかけん呑まん。と、それでも呑ませようとして、愛の心をもってと言うて、もうどげん言われたっちゃ呑もごつない。
昨日あるところの、遠方の御信者から電話がかかってまいりました。こちらに月には一、二回位しかお参りが出来ませんから、すぐ近所に教会がありますので、お参りさして頂いた。その事もお取次ぎして、お願いばしてあった。それ結構なことですなと言うておられましたら、もう今日で五日お参りをいたします。ところがね、とにかく、何も感じるものがございません。とにかく、入り口にお手洗いがある。お手洗いのところに植木が二つ、こう並んで置いてあった。
それが何か知らんけど実が稔っておるけども、稔ったまま枯れておる植木鉢がそこにある。もうそれを見ただけで、何かゾ-ッとするようなものを感じました。とこう言う。例えば雰囲気の中だけでも大事ですね。雰囲気は。ね。そこに枯れた植木鉢があった。しかも実が稔っておるけども、稔ったまま枯れておる。とそれが入り口に置いてあったと。入ったら勿論先生も居られなかったと。暫くしたら出て来なさった。お話しを頂いても、それでお参りさせて頂くたんびに、合楽のお話しをさせております。
どうぞこちらの先生、信者方、教会あげて、合楽に御縁を頂かれるように。という電話が、昨日ございました。ね。もう酢になっておるんです。昨日私がここで夕べ、頂きました事の中にね、いうならば『信者に媚る』と頂いた。ね。ここで私は総代さん達にも申します。私はあんたどんに頼っとらんよと、こう言う。私はこびない。信者の誰彼にでも媚ないです。私が媚びるのは、も、神様だけです。ね。信者に頼りすぎる。
例えばんなら、お導きをすると言うてもです、ね。媚びる様にして、お導きをしたところで参って来ません。私が信者の方へこびない。神様の方だけ媚っとけば、それこそ、岡山あたりからまでも、団体参拝が月々ある程しにおかげを頂くのです。ね。だからもし私が勿論そんな事、お話しする事もないでしょうけども。もし許されるのならね。皆が今の教団は余りにも未信奉者に、又は信者に媚すぎますよと。
そして水が酒になって、おかげを頂いた時代があったが、その酒が今、酢になりかかっておる。本当に教団をあげてのね。いうなら、教団的迷信を打破させてもろうて、形式、形、お祭りの様式と言ったような。ね。事だけが一新していくのではなくて、も、根本的に一新しなければいけませんよ。そして今日の御理解のように、牛馬のことに至るまで実意をもって願えば、おかげは頂かれる。ね。
人間は生身をもっておりますから、病気をしたり、痛い痒いがありますけれども、その事でもが、そうでは家業が出来難い。願っておかげを頂いてね、家業の行が出来るようなおかげを頂かしてもらいという事になるのじゃないでしょうか。今の教団ではこういう、いうならば御理解を、本当は正面に出して行かねばならんのじゃないでしょうか。おかげ話はいかん、つまらん、それは勿論真の信心をさせたい為でしょうが。けれども人間はまだ子供と同じ事。
それよりも教祖のお言葉にある様に、願う氏子におかげを授けておやつをやっておいて、本当の事をだんだん育てていくような働きをとなっていく。教団に教会にならなければ人は集まらないということでございます。言うなら今日あの御理解、この御理解が正面切って金光教の看板だということになってご覧になってみなさい、誰も願わんもの、いいや私は病気は治らんでよか、自分のこの頃から誰でしょうかね。犬が病気したからと言って、犬の名前のお届けがあったおかげを頂いた。
牛馬だけじゃない、犬でも猫でもお願いさせて頂ければよい。北野の中村さんところの愛猫がいなくなった、子供がいないから、それこそ子供の様に、それこそ猫に食べさせるのも、自分が食べるものを与えるくらい猫が好き。それがいなくなった。お取次ぎ頂いたら、佐賀から帰って来た。下駄の卸しに来る人が、どうも中村さんの所の、猫のごたると思って連れてきた。佐賀から連れてきた猫のこったろうが、牛馬の事は勿論のこと願って願えばおかげになる。
だから問題はそこに実意を持って願えよ、人間は欲の塊のようなものであるから、あぁこれもお願いします、これもお願いします。これから一寸集金に行きますからお願いします。まるっきし神様を集金人のような考え方ではいけない。まるきし神様を集金人のようではいけない。そこには一つの作法もありゃ、心の状態もある、そこを一口で言うなら、実意をもって願えと仰っておられるのですね。
どうぞ。